■テレビ局が、原作マンガを原作通りにドラマ化できない理由
前回、私は「今回の“不幸な”事件がなぜ起こってしまったのか」という原因として、①「ドラマ偏重主義」からくる「ドラマ多産化現象」と②コミュニケーションの断絶を挙げた。その後、大きな反響と意見や質問を皆さんからいただいた。
私のHPには、「なぜ脚本を先に作ってから制作に入らないのか? それの方が安全だし、もめることもないのでは?」という質問コメントも寄せられた。書き足りないことがずいぶんあったなぁと反省しきりだった。
したがって、今回はさらに深くこの問題を掘り下げ、抜本的な原因を探ってみようと思う。今回の“不幸な”事件は決して突発的なものではない。テレビの構造的な欠陥に起因していると私は分析している。そして、それをよく理解し改善してゆかないと、また同じような“不幸な”事件は起こってしまうと危惧している。
したがって、今回は私が経験したことを含め、なるべく具体的な事例を挙げて、わかりやすく説明してゆきたい。
■だからテレビが原作に改変を強いる
まず、この場ではっきりと言っておきたい。「原作モノ」ドラマを原作通りに映像化するのは、いまの日本のテレビでは無理だ。それが、「テレビが原作に改変を強いる」最大の理由である。
では、なぜ「原作モノ」を原作通りに映像化するのはいまの日本のテレビでは無理なのか?
本稿ではその理由を徹底的に突き詰めてゆくことで、テレビの構造的な欠陥を浮き彫りにする。その際に視点となるのは、以下の3つである。
①プロデューサーの責任論……プロデューサーは何をしていたのか?
②前回提案した「オリジナルを増やす」ことしか、打開策はないのか?
③リスクマネージメントや想像力の欠如……これは、社会全体やほかの業界にも共通する
最初に、ドラマの原作となる小説やマンガの作者である「原作者」には、以下の2つのタイプがあることを押さえておきたい。
①「お任せします」タイプ
②「チェックさせてください」タイプ
①の「お任せします」タイプは、「どうぞ、ご自由に改変していただいて結構です」と述べる作者である。この場合には、制作者は登場人物の設定やストーリーを都合よく変えることができるし、脚本家は自由にシナリオ化することもできる。②の「チェックさせてください」タイプの場合はその逆だ。これら①と②の間には段階があって、「基本的にはお任せしますが、最後のチェックはさせてください」と言われるケースなどさまざまだ。
■原作者とテレビ局がすれ違う場合
テレビが自由に原作を改変できない場合の選択肢は、以下の3つになる。
①映像化を中断、もしくはあきらめる
②こと細かく原作者と相談しながら、進める
③必要最小限のことだけを伝えながら、進める
①のときには、「それまでかかった費用をどうするか」「空いた枠を埋められるか」「主演を押さえていたら、どうするのか」などの問題が生じる。②の問題点は、「時間と手間がかかる」「原作者側の要望がどんどん増えて、制約が多くなる」「テレビ局側が作りたいものとは違うものになってしまう可能性がある」などがある。
今回の事件は、おそらく③のケースに当てはまると思われる。それは、この場合に生じる「両者間に齟齬(そご)が生じる恐れがある」「原作者がないがしろにされている感じを受ける可能性がある」などの問題点が芦原氏の主張と符合するからだ。
以上を踏まえたうえで、私が「原作モノ」を原作通りに映像化するのはいまの日本のテレビでは無理と断言する根拠を述べたい。最初の①に挙げた「プロデューサーの責任論……プロデューサーは何をしていたのか?」という視点から観ていきたい。
■「原作モノ」をドラマ化する4つの壁
「原作モノ」のドラマを映像化するためには、以下の4つを完璧に遂行、もしくは修正・調整しなければならない。
①コンプライアンス対策
②タイトル
③ドラマ「3つの要素」
④企画成立の歪み
①の「コンプライアンス対策」だが、マンガや活字と映像は違う。映像にしたことで「刺激的になりすぎてしまう」場合には、その要素を排除しなければならない。逆に映像にしてみると「つまらなく、退屈」なこともあるだろう。そんなときには、味付けを濃くする作業が必要になる。
例えば、私が「破獄」というドラマを制作したときに、投獄されている囚人が長い間手かせ足かせをはめられていたためその箇所が膿んで「ウジ虫」が湧くという描写が原作(吉村昭氏の小説『破獄』)にあった。美術が用意したホンモノのウジ虫を使って撮影がおこなわれたが、これを放送していいかどうかという議論になった。
私は「このシーンは作品のテーマを表現する上で絶対に必要だ」と主張を通すことができたが、通常は、こういった社内の上層部からの声やプレッシャーに逆らうことは、なかなか局員というサラリーマンにとっては難しい。
■「原作へのリスペクト」が問われるタイトル問題
②の「タイトル」に関しては、とにかく「わかりやすさ」を求められるという風潮がある。『ミッドナイト・ジャーナル』という新聞記者を主人公にした本城雅人氏の原作を映像化するときには、編成からかなり強く「これをパッと見た視聴者が何のドラマかわからない」と言われ、タイトルを変えるように指示された。
全部の番組がタイトルを見ただけで内容がわかるようだと逆につまらないだろうし、視聴者のリテラシーも低下させる一方だ。何より、タイトルを変えるなど正直言って「原作へのリスペクト」がなさすぎるし、原作者が納得するわけがないと思った。
だが、編成にあまり逆らうと次から企画が通らなくなったりするのが嫌だったので、私は仕方なく「ミッドナイト・ジャーナル」の後ろに「消えた誘拐犯を追え! 七年目の真実」というサブタイをつけて、原作者側と妥結した。
現在放送中のドラマ「ジャンヌの裁き」に関しては、さらに極端である。最初私は、「ジャンヌの砦」というタイトルを提案した。検察審査会という市井の人々にとっての「最後の砦」という意味とジャンヌ・ダルクがイギリス軍を陥落したトゥレール砦にかけた。しかし、またもや編成は「『砦』だと何のドラマかわからない」と言い出し、事件モノだとわかるようにしてほしいと要望してきた。
■改変を生み出す「ラブ」「サスペンス」「ヒューマン」の3要素
③の「ドラマ『3つの要素』」というのは、「ラブ」「サスペンス」「ヒューマン」である。これらの3つは、ドラマをヒットさせるために不可欠な要素と言われている。地上波ドラマは配信と違い、視聴者の年齢層が高い。そのため「共感性」を重要視する。そう考えると、上記の3つを高年齢層が好むのは理解できるだろう。
そして、そのどれかが欠けていると、「補え」と言われる。例えば、フジテレビのドラマ「ミステリと言う勿れ」では、原作にはない「ラブ」要素が足され、SNSなどではそのことに対する批判も見られた。
④の「企画成立の歪み」というのは、ドラマ企画の成立過程に見られる欠陥を指す。現在の地上波ドラマは、だいたい主役を決めてから進められる。自著『混沌時代の新・テレビ論』でも指摘しているように、いまのテレビには主役キャストを先に「ベタ置き」するという傾向があり、それはさらに強くなっている。
私がプロデューサーをやっているときにも、企画を立てる際に主役キャストを候補として挙げるのだが、「主役を張れる俳優」というのは限られていた。そうなるとキャストの争奪戦が始まり、当然、事務所の立場も強くなるというわけだ。
企画書を提案する際には、「概要」欄に書き込む主役キャストを「すでに押さえている」「打診レベル」「打診もしていなくて、単なるイメージに過ぎない」という3段階のどれなのかによって、信憑性も格段に異なるし、採択の可能性もまったく違ってくる。
■「王道の展開」に変えられ、キャラクターが別人に…
そして、「主役を決めてから脚本などの制作が進められる」ことによって、男性主役の原作が女性に変わったり、その逆もあったりということが起こってくる。また、「主役を立てなければいけない」といった事務所との関係上で生まれてくる配慮や事務所からの(やんわりとした)要望、もしくはテレビ局側の勝手な「忖度(そんたく)」で、原作に改変が加えられてゆくことになる。
例えば、「さんかく窓の外側は夜」では、原作のBL要素が抜かれてしまっていたり、「鹿男あをによし」では、主人公の同僚の男性が女性に変わっていたりした。さすがに、綾瀬はるか氏を男装させるわけにはいかないだろう。
以上のような実例を知れば、「原作モノ」のドラマにおいて原作に改変を加えることなく原作通りに映像化することがいかに困難であるかを理解してもらえるのではないだろうか。
今回、芦原氏がブログで「漫画で敢えてセオリーを外して描いた展開を、よくある王道の展開に変えられてしまう」「個性の強い各キャラクター、特に朱里・小西・進吾は原作から大きくかけ離れた別人のようなキャラクターに変更される」「性被害未遂・アフターピル・男性の生きづらさ・小西と進吾の長い対話等、私が作品の核として大切に描いたシーンは、大幅にカットや削除され、まともに描かれておらず」と述べているのはそういったことから来ているのである。
■責任者であるプロデューサーは、何をしていたのか
そこで生じるのが、「プロデューサーの責任論……プロデューサーは何をしていたのか?」という疑問である。この点において私が指摘したいのは、上記4つの遂行や調整、修正のすべてをおこなうのは、プロデューサーであるという事実だ。
原作や脚本は、著作権という知的財産権に守られている。ドラマでこの権利を行使する場合、契約を交わすのは「テレビ局⇔原作者」「テレビ局⇔脚本家」という図式の両者間である。そのため、著作権に向き合うのは局の社員プロデューサーでなければならない。まずこの作業が生じる。そのうえで、局の社員プロデューサーは、「原作」と「脚本」を守らなければならない。それはこの2つを使って仕事をしている立場だからだ。
局員の場合、基本的には土日が休みの「週休二日制」であるが、休めることは少ない。連続ドラマの収録が始まってしまうと予算削減のためにぶっ続けで撮影をしなければならないので、撮影現場の立ち会いをすると土日はつぶれる。規則で振休を取らなければならないのだが、休みの日にも電話がかかってきたりメールが来たりしてその対応に追われる。
そうなると、自然とプライベートの時間はあってないようなものになってくる。問題やトラブルが起こるとより多くの時間を取られる。たくさんいるスタッフを「衛星」にたとえるならば、プロデューサーはその中心に位置する「惑星」のようなものである。すべての衛星とコミュニケーションを取り、それぞれのことを知り、理解し、すべての状況を把握していなければならない。
■よほどの「覚悟」と「力量」がないと映像化は無理
それらの作業に割く時間は無限大に必要だ。あってもありすぎること、余ることはない。スタッフケアには限りがないのである。
これまでに述べたようなことが基本的にあり、さらにプロデューサーは「原作モノ」のドラマを映像化するために、前述した4つを完璧に遂行、もしくは修正・調整しなければならない。その作業は無限大にある。当然、忙殺されることになる。
原作者側から厳しい要求が来るとその対応にも時間と手間を取られる。私がドラマ「二つの祖国」を制作した際には、原作者の山崎豊子氏は亡くなっていたが、生前には主役のイメージや身長の高さにまで細かい要望が出されていたと聞く。
このように「原作モノ」をやるには、プロデューサーによほどの「覚悟」と「力量」がないと無理だと言っても、過言ではない。
■手薄すぎる人材配置…これもテレビ局の収益化最優先の結果だ
今回の「セクシー田中さん」のプロデューサー陣は、CP(チーフ・プロデューサー)が1人、局Pが1人、プロダクションPが1人。少なすぎる……。これでは、作業を遂行するのがやっとで、原作者や脚本家との細かな意思疎通、ケアがどれだけできていたのかと疑問を抱かずにはいられない。マネタイズ、人材不足、Pもテレビ局の構造的欠陥の「被害者」なのではないかと思えてくる。
芦原氏はブログで「最終的に私が10月のドラマ化に同意させて頂いたのは6月上旬でした」と述べているが、10月クール放送のドラマにおいて、「原作者との合意が4カ月前」というのは通常あり得ないタイミングである。しかも、芦原氏は何度もクレームや要望を出していた。そういった「危機的状況」であるにもかかわらず、局はなぜプロデューサー3人体制で制作を進めたのか?
私の過去の経験からすれば、これくらいの規模のレギュラードラマであれば、CPを除いて(CPは全体を俯瞰で見ていなければならない立場のため)、最低でも局Pが2人、プロダクションPが2人は必要だ。だとすれば、半分の戦力で膨大な作業と原作者、脚本家を含むスタッフケアをしようとしたことになる。それはどう考えても「無理だ」と言わざるを得ない。
■「4つの壁」を越えられないから、深刻な問題が起きる
現在、ドラマ制作現場で完璧な遂行を求められる上記の4点に関しては、以下の問題点を指摘したい。
まず、①の「コンプライアンス対策」だが、年々、制作者のコンプライアンスが劣化している。ドラマの撮影の際に、居酒屋でのシーンを撮るために制作陣がある店にロケハンに行った。芝居場となる背景がさみしいとのことで、監督が「何かポスターのようなものをここに貼って」と要請した。「わかりました」と助監督は答え、美術にポスターを発注した。撮影を終え、放送は無事にすんだ。と思っていたら、ある日突然、視聴者から局に電話がかかってきた。聞けば、そのドラマで使われたポスターの図柄が自分の作り出したキャラクターそっくりだというのである。
美術に確認したところ、助監督が持ってきた図案通りに作っただけで何がどうなっているかまったくわからないという。助監督に聞いてみると、サイトを見ていたらちょうどよさげなデザインがあったのでそれをプリントアウトして美術に渡したが、そのときに「くれぐれも著作権に引っかからないようにお願いします」と何度も念押ししたはずだの一点張りだった。
この事件は制作陣のコミュニケーション不足に端を発しているが、私がもっとも罪が深いと考えるのが、プロデューサーである。プロデューサーは「最後のチェック機関」だ。上記に挙げたようなことをすべて気づいて排除してゆくのがプロデューサーの仕事なのである。
■旧態依然のテレビが「原作軽視」を招く
②の「タイトル」に関しては、やっていることがまったく時代に合っていない。マンガ原作の場合には、タイトルを変更するケースが少ない。「これはなぜか」を考えてみれば、現状の作業がどんなに時代錯誤かがわかる。マンガ原作はその認知度に寄与する度合いが多いため、タイトルを変えてしまうと視聴者がその作品だと気がつかないなどの「不利益」が生じるからだ。
同じように、いまのネット社会においては、タイトルも知らないものであればすぐに検索をしたりして調べるため、「わかりにくい」という論理は通用しない。原作のタイトルを変えてしまうことによって、逆に検索してもヒットしないという矛盾に陥ってしまう。
③の「ドラマ『3つの要素』」も、考え方がすでに古い。これだけ多様化が叫ばれる時代に、ステレオタイプの要素を重要視しているから、どのドラマも同じようなストーリーや展開になるのだ。配信などでは一時期、BLドラマが流行ったが、私はこういった「単一ジャンル」に特化したドラマが今後は増えると予測している。
④の「企画成立の歪み」については、企画採択の仕組みを変えることを提案したい。「キャスト先行型」や「キャスト依存」の考え方をやめて、「内容重視」で採択の可否を決めることを徹底してはどうか。本来、テレビの番組はそうであった。「おもしろい」と心底思えるものを企画して自信をもって通し、実現化してきた。いつからか「キャスト」や「原作」が押さえられていることが優位性を持つようになり、「必須条件」に近いものになっていった。そういった歪みを是正するときなのではないだろうか。
■ドラマの脚本を作ったうえで、原作者の同意を得るべきだが…
そして今回の事件を受けた提言をおこなう。これが最初に述べた、テレビの構造的な欠陥を浮き彫りにする視点の②「前回提案した『オリジナルを増やす』ことしか、打開策はないのか?」である。
私はドラマにおいて「オリジナル脚本」の作品を増やすべきだと述べたが、実はすでにオリジナル脚本は増えつつある。特に、若い世代の脚本家たちが新しい発想のドラマを構築し始めている。例えば、医療機関で働きながら脚本を学び、フジテレビヤングシナリオ大賞でデビューした生方美久氏やマネージャー業を経てTBS連ドラ・シナリオ大賞入選を果たした大北はるか氏など、独自のスタイルでオリジナル作品を数多く発表している。
生方氏は「silent」「いちばんすきな花」、大北氏は「ユニコーンに乗って」「女神(テミス)の教室」などで世代を超えて支持をされているが、いずれもオリジナルだから自由に描ける世界観が特徴だ。
そして今回、私が提言する「オリジナルを増やす」こと以外の打開案は、冒頭で挙げた私のHPに寄せられた質問に応えるものとなる。それは、「原作モノ」の場合は、脚本を作ってから制作に着手してはどうか、ということである。つまり、原作を基に脚本を作り、その台本で原作者側と同意したうえで、撮影に入るという手順を踏むことだ。
■「時間」と「カネ」がかかる…テレビ局が二の足を踏む根本理由
だが、このやり方は実は非常に困難だ。理由は、「時間」と「カネ」がかかるからだ。例えば、レギュラードラマ11回分の脚本を全部作り上げようと思うと、3カ月ほどかかる。それを待っていられるかということだ。今回の「セクシー田中さん」の場合は、6月に原作者と合意したとのことだが、それから全話の脚本を作っているととうてい10月の放送には間に合わない。撮影後に放送までの「ポスプロ」と呼ばれる編集や音の作業、色調整などには最低でも1カ月はかかるからだ。
また、もし脚本化をしても原作者側との合意に至らなかった場合は、脚本をドブに捨てることになる。1本あたりの1時間ドラマの脚本料は、脚本家のランクにもよるが、だいたい100万円前後であるから、ボツになれば11回分の計1100万円を無駄にする。さらに、原作を押さえておくための「オプション契約」にかかるお金もある。
オプション契約とは、原作者に対価(オプション料)を支払うことで、一定期間(オプション期間)、映像化の権利を担保する契約のことである。特定の局と原作者側でオプション契約を結ぶと他局は手を出せないため、安心して準備をすることができるが、映像化が実現しなかった際にはオプション料は戻ってこないというリスクがある。ただし、映像化が実現すると、オプション料は映像化権料に集約される。このオプション料は数百万にのぼる場合もあり、不安定な状態においての出資として局が二の足を踏む要素となっている。
■できないなら安易に「原作モノ」に手を出すべきではない
私はこれまで2回、オプション契約をおこなったことがある。1回目は前述の「ミッドナイト・ジャーナル」のときで、「こういう方法をやっていかないと新しいドラマは開発できない」と局内を強引に説得して、脚本家の羽原大介氏にお願いして脚本を先に作ってから主役をキャストした。当時の上司に理解があったことと、羽原氏が「ドラマ化は決まっていないが、そうしたいと思っている。脚本料は払うのでこういった試みに乗ってほしい」という私のお願いを快く受け入れてくれたことが幸いとなった。
2回目は、「二つの祖国」のときで、映像化の条件が最初から「脚本化してその脚本で合意してから」というものだったので、これも社内を説得して出版社とオプション契約を結んだ。費用はかかるし、キャストは最終決定できない、社内では企画が「最終GO」にはなっていないという胃が痛い状態が1年以上も続いた。
以上のように、かなり強引な交渉をおこなうか、やんごとない事情がある場合を除いて、いまのテレビではこういった方法は通常的ではない。
しかし、私が「原作モノのドラマの場合には、脚本を作ってから制作に入る」ということを提言しているのは、これはとても難しいことではあるが、それだけに、「これができないようなら、安易に原作に手を出すべきではない」ということを言いたいからだ。プロデューサー、テレビ局はそういう「覚悟」で挑んでほしいと願っている。
そしてテレビの構造的な欠陥を浮き彫りにする4つ目の視点「リスクマネージメントや想像力の欠如」であるが、これはテレビ業界に限ったことではなく、社会全体やほかの業界にも共通する問題である。前述したポスター事件は、普段の生活の中やビジネスの場でも起こりえることだ。それを防ぐためには、「リテラシー」を磨く必要がある。
■テレビマンに決定的に欠けていた2つの要素
では、どうやったらリテラシーを磨くことができるのか。コツは、次の2つの能力を鍛えてゆくことにある。
①想像力(imagination)
②リスクマネージメント能力
①の「想像力(imagination)」は「もしこうしたら、こうなる」と想像することができる力である。先程のポスター事件の例でいえば、「もしネットで見つけた図案を許可なく使ってしまったら、ヤバいことになる」と想像するということだ。しかし、もし想像力が備わっていても「未必の故意」が邪魔をすることがある。「未必の故意」とは、「もしネットで見つけた図案を許可なく使ってしまったら、ヤバいことになる」ということが想像できたとしても「そうなっても仕方がない」と許容してしまうような場合を指す。
そこで必要になるのが、②の「リスクマネージメント能力」だ。「リスクマネージメント能力」とは、リスク(危険)を回避しようとする気持ちやその力を意味する。
これら2つが同時に備わっていれば、「もしネットで見つけた図案を許可なく使ってしまったら、ヤバいことになる」と想像し、「ヤバいこと=リスク」を避けようとする。
以上のように、想像力とリスクマネージメント能力はワンセットで稼働させる必要があるため、常に一緒に養ってゆくことが必須となる。今回の「セクシー田中さん」の事件では、この2つが欠けていた、もしくはそこまで気がまわる余裕がなかったと思われるからだ。
■SNS時代だからこそ「原作モノ」のハードルは高い
最後に、番組制作における「ネットの功罪」について言及しておきたい。今回の“不幸な”事件には、ネットの影響も大きく関わっていると考えるからだ。このテーマについて私たち一人ひとりがよく考えてゆかないと、同じような“不幸な”事件は繰り返されると警鐘を鳴らしたい。
ネットの「功」は、視聴者が思ったことを発信でき、作り手もそれを気にしながら作品作りをすることができることだ。すなわち、「双方向」に近い形で番組制作を進めることができる。しかし、そこには高度な「コミュニケーション能力」や「リテラシー」が必要になる。
対して「罪」だが、今回で言えば、周りがこんなにSNSなどで騒がなければ、テレビ局側と原作者側の両者で話し合いをして「次回は気をつけましょう」で終わったはずだ。原作者も作り手もあれだけファンや視聴者が騒げば「不安」になる。その不安をかき立てすぎた可能性があるのではないだろうか。
しかし、ここまでネットが発達している社会において、「騒ぐな。黙っておこう」と言うのは無理があるし、それはかえって火に油を注ぐことになる。「誉める人」がいれば「けなす人」も出てくるのがいまの世の中だ。そういったネット社会という環境も、私が「原作をドラマ化してゆくのはかなりハードルが高い」と述べる理由となっている。
■テレビの「自分よがり」と「自己中心的」な性癖
日本テレビはいまだにダンマリを決め込んでいる。最初の公式見解で日テレは芦原氏に「感謝している」と述べた。これでは、別れを告げる相手に恨まれないように「これまでありがとう」と言うようなものだ。保身でしかない。
こういった、都合悪いことは隠し、他者の危機感ばかりを煽ろうとするテレビの「自分よがり」「自己中心的」な性癖が、今回の事件を引き起こしたと言ってもよい。そんなことより、しっかりと調査をして、世間に対して時系列で「どんな経緯があって、こうなってしまったのか」を説明したほうがいい。
その方がよっぽど芦原氏に感謝の気持ちを示し、冥福を祈ることになるのではないだろうか。
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元テレビ東京社員、桜美林大学芸術文化学群ビジュアル・アーツ専修教授
1964年兵庫県生まれ。慶應義塾大学法学部を卒業後、テレビ東京に入社。世界各地の秘境を訪ねるドキュメンタリーを手掛けて、訪れた国は100カ国以上。「連合赤軍」「高齢初犯」「ストーカー加害者」をテーマにした社会派ドキュメンタリーのほか、ドラマのプロデュースも手掛ける。2023年3月にテレビ東京を退社し、現在は桜美林大学芸術文化学群ビジュアル・アーツ専修教授。著書に『混沌時代の新・テレビ論』(ポプラ新書)、『弱者の勝利学 不利な条件を強みに変える“テレ東流”逆転発想の秘密』(方丈社)、『発達障害と少年犯罪』(新潮新書)、『ストーカー加害者 私から、逃げてください』(河出書房新社)、『秘境に学ぶ幸せのかたち』(講談社)など。日本文藝家協会正会員、日本映像学会正会員、芸術科学会正会員、日本フードサービス学会正会員。映像を通じてさまざまな情報発信をする、株式会社35プロデュースを設立した。
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(出典 news.nicovideo.jp)
「やっぱり原作通りの展開が見たかったな。でも、ドラマならではの新しい魅力もあるかもしれない」
「セクシー田中さんのキャラクターがどう変わるのか、気になりますね。原作とは違う魅力があるかもしれません」
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