テリー 45周年ということで昔の話も伺いたいんですけど、最初は全日本プロレスに入って、付き人になりますよね。

越中 最初がジャンボ(鶴田)さん、その後5年ぐらいしてから(ジャイアント)馬場さんですね。

テリー ジャンボさんはどういう方だったんですか。

越中 練習の時は厳しかったですけど、普段は先輩後輩を飛び越えて親しくしてくれて、あちこち連れてってもらいましたね。

テリー 僕も何度か一緒に仕事させてもらいましたけど、ジャンボさんって学生チャンピオンだから、学生の運動部のノリがあったというか、僕らがイメージするプロレスラーとちょっと違いましたよね。

越中 そうですね。だから、すごく温厚だったし。多少怒られましたけど、ガーンなんてやられたことは一度もなかったですね。

テリー 馬場さんの方が大変だった?

越中 めちゃくちゃ大変でした。耳をすませてないと、何を言ったかわからないんですよ。「えっ、今、何て言いました?」って聞き返されるのを一番嫌がるので。「もう一度お願いします」なんて言ったら、「コノヤロー!」って怒られますから、たえず耳をすませてなきゃいけなかったですね。

テリー 馬場さんのところは何年いたんですか。

越中 全日本プロレスは7年ぐらいですかね。馬場さんの付き人は2年ぐらいやったと思うんですけど。それからメキシコへ2年ぐらい行って。

テリー それは三沢(光晴)さんとですよね。

越中 そうです、三沢と。

テリー やっぱり違いますか、向こうは。

越中 いやぁ、全然違いますね。365日試合がありましたし、食は合わないし、衛生状態はめちゃくちゃだし。今住んでる原村は(標高)1350メートルですけど、メキシコシティは2000メートルぐらいありますから。

テリー ええっ、じゃあ空気が薄いんだ。

越中 だから最初の頃はコーナーに酸素ボンベが置いてあって、「試合の途中で息が苦しくなったら、これを吸ってまた行ってくれ」みたいな(笑)。

テリー でも、365日試合があるのは、やっぱりプロレスが大人気なんですね。

越中 娯楽と呼べるものがサッカーとサーカスとプロレスしかないんですよ。サッカーとサーカスは期間が限定されるじゃないですか。一年中ずっとやってるのはプロレスだけ。だから、あちこちからひっきりなしに「来てくれ」みたいな。本当に365日働かされたなっていう。

テリー 体力いりますね。

越中 日本の5倍広いですから。毎週金曜日にアレナ・メヒコっていうデカい会場に帰ってこなきゃいけないので、20時間ぐらいバスに乗って帰ってきたりとか。めちゃくちゃ忙しかったです。十何キロ痩せちゃったんですから。

テリー 向こうのプロレスって勉強になるんですか。

越中 いや、我々の方が10年先に行ってましたよ。僕らの方が技術も体力も全然上で、最初だけですね、大変だったのは。

テリー あ、そうなんだ。そうすると日本人レスラーのポジションっていいんですか。

越中 いいですね。やっぱりメキシコ人同士で戦うのもいいんですけど、そこに外国人選手が入ると、ちょっと違う景色というか色が出るというか。

テリー 越中さんは悪役?

越中 いや、メキシコ人に悪役が多くて、のさばってたから、いい者で。僕は悪いことしたかったんですけど、「悪い奴がいっぱいいるから、そいつらと戦ってくれ」って。

テリー 例えばザ・グレート・カブキさんとか、口から毒霧を吐きますよね。

越中 僕もてっきりそういうことかなと思ったんですけど、三沢と2人で悪を倒してましたね(笑)

ゲスト:越中詩郎(こしなか・しろう)1958年、東京都生まれ。1978年、「全日本プロレス」入門。1979年、公式戦デビュー。1984年、三沢光晴と共にメキシコ武者修行へ旅立ち、「サムライ・シロー」の名で活躍。1985年には「新日本プロレス」へ移籍し、旧UWFから戻ってきた高田伸彦(現・延彦)との抗争でブレイク。1992年には反選手会同盟(のちの平成維震軍)を結成した。2003年、契約満了により新日本プロレスを退団すると、長州力らが旗揚げした「WJプロレス」に移籍。その後はフリーランスとして、新日本、全日本、ノア、ハッスルなどで活躍。8月24日(土)、デビュー45周年記念大会が後楽園ホールで開催される。



(出典 news.nicovideo.jp)

越中詩郎さんの声を聞くたびに泣いてしまいます。馬場さんの闘病生活がどれだけ辛かったか想像もつきません。

テリー伊藤さんとの対談、とても感動しました。馬場さんの強さ、そして周りの方々の支えが素晴らしいと改めて思いました。

越中詩郎さんの言葉には、馬場さんへの深い愛情が伝わってきます。彼の闘病を支え続けた姿に感動して涙が止まりません。

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